第一章 格闘熊と銃器猫

 春が過ぎ、夏も中盤。世間一般は、夏休みとよばれる時期にある。
 俺、西園寺 尊は、六畳一間のアパートの自室で、うだるような暑さに耐えていた。
 扇風機はない。エアコンもない。団扇もない。
 部屋の気温は35度5分。
 熱い。つーか、死ぬ。
 冷蔵庫を開け、水分を探す。
 麦茶は切れている。
 スポーツドリンクもない。
 清涼飲料水もない。
 つーか、何も入っていない。
 最悪だ。水道水は熱されて温くなっているし、冷凍庫の氷は固まってない。
 死ぬ。熱中症で死ぬ。
 已む無く、俺は死に体の体を引きずって、コンビニエンスストアという名の現代社会のオアシスに向かうことにした。
 部屋を出て、自転車に乗る。
 熱線を浴び続けたサドルは、異常な高温になっていた。
 くそう。炎天下のバカ野郎!
 覚悟を決めて跨り、一路コンビニを目指す。
 コンビニまでは、最短距離を走れば3分でたどり着ける。
 ペダルをこぐ。
 滑り出しは快調。
 そう思った矢先、何かを轢いた。
「ぐぎゃあ」
 悲鳴みたいな、変な声が聞こえた。
 後輪の0,5メートル後方に、奇麗な轢傷を負ったそれが、倒れていた。
 それは熊のぬいぐるみの格好をしていた。
 どうやら、テディベアを轢いてしまったらしい。
 悲鳴は、たぶん、空耳だったのだろう。
 なんとなく、そのまま現場を放置しておくのも気が引けたので、テディベアを回収しに行く。
 轢かれない場所に置いておいてやるのが、轢いたものの責任(?)なような気がした。
 首根っこを捕まえて、持ち上げる。
 全長30センチ。少々大きいが、なんの変哲もない普通のテディベアだ。
 軽く叩いて埃を払い、道の隅に置く。
 よし、問題解決。
 テディベアに背を向ける。
 急がなければ。コンビニが俺を待っている。
「く、安心すんのはまだ早いで。兄チャン」
 自転車に跨ろうとした瞬間、背後から、声をかけられた。
 振り返る。
 そこには、テディベアが座っている。
 周囲を見回す。人影はない。
「よくも、やってくれたなぁ」
 声が聞こえた方を向く。そこには、テディベアが座っている。
 幻聴だ。暑さにやられて、幻聴が聞こえてきた。
 コンビニより先に、病院に行くべきかもしれない。
「まさか、後ろから轢かれるとは思うてなかったで。おかげで、意識が一瞬飛びおった」
 テディベアが、立ち上がった。
 俺の目の前で、テディベアが喋って、二本の足で立っている。
 予想以上に、熱中症が悪化しているらしい。救急車、呼ぶべきかもしれない。
 ケータイを取り出し、119を押す。
 救急車は緊急の時に呼ぶべきものだ。
 テディベアが二本足で立って人語を話していれば、それは確実に緊急事態だろう。
「ほう。仲間呼ぶつもりか。けどな、そうはさせへんで」
 テディベアがファイティングポーズをとる。
 黒いボタンの瞳に戦意が宿る。
 直後、テディベアの姿が消えた。いや、消えた訳じゃない。懐に踏み込まれた。
 風が頬を掠める。
 テディベアのアッパーが、俺のケータイを弾き飛ばした。
 視線が交錯する。
 テディベアは不敵に笑っていた。
 第六感が危険を告げている。
 身を伏せる。
 テディベアは蹴りを放つ。
 脚が前髪を掠めた。飛びずさって距離をとる。
「ほう。ワイの蹴りをかわすとはたいしたもんや。けど、もうケータイはあらへん。黒猫は呼ばれへんで」
 テディベアは訳のわからない事を言う。
 状況は理解できない。けど、はっきりした事が二つ。
 このテディベアは本物で、完全に自立して動いているということ。そして、不自然なくらい強いということ。
 気が抜けない。油断すればやられる。
 左自然体に構える。
 間合いが掴みづらい。
 テディベアと拳を交えるのは、当然初めてだ。
 リーチはこちらが上。だが、的が小さくて当てにくい。
 じりじりと、間合いが詰まる。
 小技の応酬をしている余裕はない。一撃で決める。
 テディベアが俺の間合いの中に入る。
 渾身の左ローを放つ。
 テディベアは跳躍して避けた。
 俺の顔よりも高く飛び、そして、前宙、のち、かかと落とし。
 腕を交差させ、防御。
 重い一撃だった。防御した腕が痺れる。
 テディベアはバク宙、のち、着地。
 仕切りなおしとなった。
 実際、かなり劣勢だ。
「やるな。兄ちゃん。けど、今ので、兄ちゃんの実力は分かったで。次で、決めさせてもらおか」
 テディベアが拳を構える。その両手に鋭利な爪が生えた。
「武器かよ。タチが悪いな」
 劣勢の極み。下手すれば、死ぬ。
 間合いが詰まる。
 勝負は一瞬。
 テディベアが、俺の間合いに入る。
 左ローを放つ。
 テディベアが跳躍する。
 ここまではさっきと同じだ。
 だが、ここからが違う。
 相手の実力を測っていたのは、テディベアだけじゃない。
 俺もテディベアの実力を測っていた。
 テディベアの回避力は高い。だが、空中なら、簡単に姿勢を変えることはできないはずだ。
 ローを放った足を返さず、踏み込む。そして、体を転じて裏拳を放つ。
 会心の一撃だった。確実に当たるはずだった。
 だが、その一撃は外れた。
 テディベアーは、中空で、再び跳躍した。
「くっくっくっ。今の時代、二段ジャンプは基本やで」
 テディベアーが嘲笑する。
 反応が追いつかない。
 テディベアーの爪が煌めく。
「チェリー。精密射撃」
 突如、凛とした声が響いた。
 同時に、発砲音。
 テディベアーが体勢を崩し、地面に転がる。
「下がっていて」
 ふわりと、俺の目の前に一人の少女が舞い降りた。
 十五、六才くらいの少女。俺より年下だろう。彼女の足元には、四角くて、黒い、デフォルメされた猫のぬいぐるみが立っている。
「つぅ……。射撃武器ってのは卑怯やないか」
 ゆらりと、テディベアが立ち上がる。
 その額には、小さな穴が開いていた。
「素手相手に凶器を使う相手に、言われたくはないわ」
 冷ややかに、少女は言う。
「それに、あなたも撃とうと思えば撃てるじゃない。ロケットパンチ」
「阿呆っ! 撃てるかい!」
「そんなことないわ。腕をもいで投げれば、ばっちりOK」
「なるか! 綿と布の塊投げつけられて、どこの誰が痛がるねん! 呆けんのも大概にせい!」
「分かった。真面目にする。チェリー、照準」
 少女は、淡白に指示を出した。足元のぬいぐるみ猫にむかって。
 ぬいぐるみ猫は四肢を踏ん張る。
 背中が開き、箱状のものがせり出す。
「な! ちょっと待て。それは、ちょっと待たんかい!」
 テディベアが狼狽する。
 少女は眉一つ動かさず
「発射」
 ただ、そう言った。
 ぬいぐるみ猫の背中から、二発のミサイルが放たれる。
 テディベアは脱兎の如く駆け出した。
 ミサイルは追尾式らしく、テディベアの後を追いかけていく。
 テディベアは、逃げながら石を拾った。
「こいつでどないや!」
 テディベアが石を投げる。
 ミサイルに当たる。
 爆発。そして誘爆。
 もうもうと砂煙が舞い、熱風が吹く。
 砂煙が収まった後には、テディベアの姿は消えていた。
「逃げられた。追うわよ。チェリー」
 少女とぬいぐるみ猫が走っていく。
 俺は、ただ呆然と、見送ることしか出来なかった。
 というか、これ以上関わりたくなかった。動くぬいぐるみという、非現実的な物象に。
 けど、世の中というのはおかしなもので、関わりたくないものには、深く関わってしまうようにできているらしい。
 彼らと再開するのに、そう時間はかからなかった。



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